美味しい肉

 

 世の中には美味しい肉が溢れかえっているようだ。
大麦だけで育てた牛や、林檎を食べさせたもの、ビールを飲ませたもの・・・・
美味しい物や高級なものを食べさせた家畜は肉が美味しくなるという事らしい。
全く結構な事だ。

 世の中には食料がなくて餓死していく人達が大勢いる。
その人達を救うために全人類に食料を均等に分けようという話があった。
しかし、これは実行には移されなかった。
もし、全人類に食料を均等に配分したとしたらアメリカ人の食事量は3分の1になると言う。
先進国の人間は自分が嫌な思いをするのが嫌だから賛成しなかった、という訳だ。
しかし、この配分する食料には家畜の餌にされている分は含まれていない。
貧乏人に食わせるくらいなら動物に食わせた方がましだ、という事だろうか?
それとも自分達にはもっと美味しい物を食べる権利があり、
貧乏人には食料を十分に食べる権利がないとでもいうのだろうか?

 そもそも、高級な食べ物で育てられた家畜の肉は本当に美味しいのだろうか?
答えは否、である。
同じ環境で育てた高級な麦を食べさせた鶏と
ミミズなどの虫を食べさせた鶏の肉の違いは人間にはわからない。
牛についても同じ結果が得られたそうだ。
肉が柔らかいとか、固いとかが違いだとか、いう人もいるがこれは生活環境の違いでしかない。
運動不足でぶくぶくに太った不健康な家畜の肉は柔らかいし、
運動をして引き締まった身体の家畜の肉は固い、ただそれだけの事だ。
まあ、柔らかい肉が好きな人から見れば運動不足のぶくぶくに太った不健康な家畜の肉の方が
美味しいという事はあるだろうが・・・・
つまり、人間の食料を食べさせた高級な肉は美味しいわけではないのである。
中には家畜の食料による肉の違いを見分けられる人もいるらしいが、
この人達はごく少数派、つまり異常な人間である。
つまり家畜に人間の食料を食べさせる事は、全くの食料の無駄という事である。

 もっともだから家畜に人間の食べ物を与えるのはすぐに止めろ!と言う気はない。
なぜならそれが現状では最も手に入りやすい家畜の餌であるからだ。
だが、それを続ける事には疑問を感じる。
鶏には人間の出したゴミから発生する虫を与えればいいし、豚には残飯を与えればいいし、
牛には野菜屑や麦藁などを与えればいい。
ただし、現状ではそのような飼料を多量に作れる施設がない。
しかし、このような人間の食料ではない飼料を少しなら作る事は難しくない。
このような人間の食べられない食料をじょじょに増やしていけばいいのだ。
なにもいきなり多量のお金をかけて大がかりな施設を作る必要はない。
そうすれば食糧難の人達にもっと食料を回す事が出来るだろう。

 家畜に高級な食べ物を与える訳はもう1つあると考えられる。
それは現在の社会が高級品指向だ、という事だ。
金をかけて物を作って、より高く売りつける、というのがそれである。
これは価格競争でより安い物が出てきて勝てなくなったために、高級品で勝負しよう、
という事により発生したように思える。
作るのに金がかかっているから、高く売りつけないと困る。
貧乏人に売りつけるよりも、金持ちの家畜の飼料にした方が金になるという訳だ。
これでは悪循環である。
売れなければ、もっとお金をかけて、品質を良くして売ればいい。
当然値段はもっと高くなる。
そしてそれが家畜の肉の場合はたいして違いがない事は先に述べた通りである。
生活のための苦肉の策とはいえ、つくづく勿体ない事をしているものだ。

 どうも私達は回りに振り回されて美味しくもない物にお金をかけているようだ。
もっとも味に違いがなくとも、美味しい物だ、という先入観があれば美味しく感じられるのは確かである。
だったら、安物の肉をとても美味しい肉だと言って食べさせればいい。
高級な肉の方が美味しい訳ではないのだから。


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