その日、うちの湯沸し機がもくもくと黒煙を噴き出して壊れた。
しかし冬の寒い日、体を温めずに入られない。
そういうわけで今日は銭湯…、なんなんだが…。

男の背中



「どうした、入らないのか?」

なぜか父さんがここにいる。
今日は仕事が珍しく早く終わったので久しぶりに早く帰ってきたのだ。
…いや、家に帰ってくること自体久しぶりか。
まあ、そのおかげで毎週末ごとに家を空けても何も言われないのだが。
脱衣所で突っ立っていてもしょうがないので、服を脱いで洗い場に入る。
普段余り入らないので、この時間帯が混むのかどうかはわからないが、とりあえず今日はすいていた。
とりあえず2つ並んだ蛇口のところに、風呂セット一式を入れた洗面器を置き、場所をキープする。
そして、かけ湯をして湯船の中へ。
家の風呂では味わえない開放感を存分に味わう。
隣に陣取った父さんも同じように満喫しているようだ。
その間、二人の間には何も言葉が出なかった。
こうやって親子がそろっているのだから何かしら話すべきなのだが、何も言葉が出てこない。
何か話題を…、と考えている間に父さんが先に動いた。

「背中の垢、こするか?」

その言葉に抗う理由もないので父さんの後に続いて湯船からあがった。




「いくぞ。痛かったら言えよ」

そう言って父さんは、僕の背中をこすり始めた。
そういえば、小さい頃はこうやって垢をこすられるのはいやだった。
子供心には、とにかく痛かったという思いしか残ってない。
だが今はそれほどでもない。
小さい頃ほど肌が敏感でなくなっているのか、それとも父さんの力が弱くなっているのか。
…多分、両方なんだろう。
そんなことを考えていると父さんが話し掛けてきた。

「おまえ、週末になるとどこに行ってるんだ?」

やっぱり聞かれるか。
いくら週末にも帰ってこないからといって気付かないわけもないし。
というか、今まで聞かれなかったのが不思議なくらいだ。

「う〜ん、まぁ、日本中をあちこちと…」

とりあえず、そんな風に返答した。
そしてまた静寂が広がる。
その間も父さんの手は休むことなく背中をこすっている。
しばらくその状況が続いて、不意に父さんが口を開いた。

「女か…。おまえも成長したな」

…ブッ。
思わず噴き出した。
いきなり何てこと言うかな、この人は。
いやそれよりも何でわかったんだ?

「おいおい、何もそんなに驚くことはないだろう。私は父親なんだぞ」

それでわかる物なのか?

「この背中を見ればわかる。背中をな…」

この一年足らずの間にそんなに変わるようなものなのだろうか。
その疑問をストレートにぶつけてみた。

「おまえの、背中が変わったかどうかはわからない。
 でも、いろんなものを背負い込んでいるっていうのはよくわかる。
 私も男だし、何より色々と経験してきたからな」

その言葉には、普段あまり聞かれることのない重みが含まれていた。
そんな父さんに少し尊敬の念を覚えた。

「…ところで、何人ぐらいの娘と付き合っているんだ?
 一人や二人じゃきかないようだが」

何でそんな答えづらいことまで聞くかな…。
だが、いまさら誤魔化すのもなんだったし正直に答えることにした。
裸で話しているということが、包み隠さず話すということを助けているのかもしれない。

「じゅ、十二人ほど…」

「十二人!?」

さすがにこの答えには驚いたようだ。
誤解を与えてはいけないと思い言葉を続けた。

「いや、でも付き合っているとかそういうのじゃなくて、まだ友達って言うかなんというか…」

だが、口は思ったように回ってはくれずしどろもどろになる。
そんな風に焦っている僕を静めるかのような声で父さんは言葉を掛ける。

「真剣なんだな」

その言葉に僕の頭は冷静になる。
真剣。
それは間違いない。
周りからどう見られようと、彼女達といいかげんには付き合ってはいない。
その思いを告げるため、まず一つ大きくうなずいた。

「うん、真剣だよ」

父さんはそれに何も返さない。
それが、次の言葉を促しているように思え言葉を続けた。
さっきは、形にできなかった言葉が、今度はすらすらと口から流れる。

「春から日本中を回って女の子達と会ってきたけど、どの娘もみんな魅力的なんだ。
 でも、いろいろ悩んでたり困ってたり悲しんでたりしてたりもする。
 そういう時には少しでも力になってあげたい、そして、笑顔を見ていたい。
 そう思ってると、ついつい日本中を回ってしまうんだ」

それが、偽りのない自分の気持ちだった。
父さんは何も言わない。
こすり終わった背中にお湯をかける。

「交代だ」

そういってタオルを渡し背中を向ける。
呆れたのか、それとも怒っているのか。
父さんの心のうちを窺い知ることはできなかった。
ただ、向けられた背中をこすることしかできなかった。
その背中は子供の頃見たときよりも小さく見えた。
でも、その広さを感じることができた。
経験と決断とを幾度も繰り返してきた男の背中。
自分の背中はいつかこうなれるのだろうか…。
そう考えていると、父さんがポツリと言葉を漏らした。

「今はまだいい。だが、いつかは決断しなくてはいけない」

決断…。

「おまえがその12人の中から選ぶか、それともまったく別の娘を選ぶのかはわからない。
 でも、近いうちに決断を迫られる日は来る」

…そう、それは薄々考えていた。
この状況はいつまでも続けられるものではない。
でも、誰か一人を選んだとき他の娘は…。
そんな悩みを感じたからなのか、それとも手が止まっていたからなのか父さんは優しく言葉をくれた。

「大丈夫。わかってくれる。
 おまえが本当に真剣に接していたのならわかってくれるさ」

人生の先輩としてのその言葉は、その広い背中と共に僕に安心をくれた。
そして、遠からず来るであろう決着の時を僕は予感した。



僕が本当に想っているのは…

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