『…ご用件のある方は発信音の後にメッセージを入れてください…』

今日もまたあの方は電話に出てはくれなかった…。
私が聞けたのは、無機質な応対メッセージだけ。
あの日以来、あの優しい声を聞いてはいません。
受話器を元の位置に戻すと、聞こえるのは外の雨の音…。
ずっと降り止まない雨の音だけ…。


秋霖は時に暖かく


ここしばらく、この古都・京都では雨が降り続いていた。
それは冬の吐息をわずかながら含んだ冷たい雨であった。
その雨の下にいる人々は大きく二種類に別れる。
傘をさしその歩みを変えぬ者たち、雨を早く避けようと急ぐ者たちである。
ただ今日のところはそれ以外の者が混ざっていたようである。
つまり、雨に対して傘もささず、なおその歩みを変えない者である。
当然人々の視線はその者に集まってくる。
ただ、その視線の集まる訳はその振る舞いだけにある訳ではないようである。
その者、いや、その少女は人並み以上の容貌を備えていたのである。
その美貌は雨に濡れても損なわれることはなく、逆に凄絶な美しさを醸し出していた。
この少女の名は綾崎若菜。
一人の少年に恋をし、そして今、その想いが故に苦しみを覚えている乙女である。

何故に雨に身をさらしているのか―、事の始まりは二週間ほど前にさかのぼる。
その日、若菜は見合いをすることになっていた。
だがそれは結局行われることはなかった。
見合いの行われる直前、若菜は一人の少年と出会っていたからだ。
若菜の、未来に関する疑問。
少年の、人生という問いに対する回答。
決して長い時間ではないその会話の間に、若菜は決心し行動に移した。
その時若菜は、少年と確かな絆を結ぶことができたと思っていた。
しかし、その想いは絶たれることになる。
それ以来、少年との連絡が途絶えてしまったのである。
春の再会以後、頻繁にかかってきた電話は一度もかからなくなり、
こちらから電話をかけてもいつも留守番電話という状態が続いているのである。
それでも一週間は耐えることができた。
しかし十日を過ぎ、二週間を数える今となってはもう駄目である。
学校があるうちはいいが、休みとなって一日中電話の前で待つことに耐えられなくなったのである。
しかし外に出たからといって何かすることがあるという訳ではなかった。
いや、今の若菜には何かをするという気力そのものがないのである。
雨から身を隠す気力も、もしかすると雨が降っているということに気付く気力もないのではないか。
そう思わせるほど今の若菜の瞳にに生気はなかった。



「空は…、…見えませんね…」

私は立ち止まり、空を見上げて青空を探しました。
でも、暗雲が空一面に広がっているこの状況ではそれはかないません。
顔を戻すと雨とは違うものが頬を濡らします。

「この暗さは、あの時の暗さ…、一人ぼっちの…暗さ」

あの方との別れの日、蔵に閉じ込められたことを思い出します。
一人ぼっちで、怖くて、心細くて、ただ泣くことしかできなかったあの時。
でも、あなたは来てくださいました。
私の心に光を与えてくださいました。
でも…、今は…。
どうしてあなたは来てくださらないのですか…。
私の心の中の雲をはらうことが出来るのはあなただけなのに。
私は無駄だと思いつつもう一度空を見上げました。
しかしそこにあるのは、やはり黒い空だけ…。




その時でした、私の目に突然青空が入ってきたのです。

「えっ!」

思わず驚きの声が出てしまいました。
晴れる予兆のようなものはまったく見受けられなかったのに…。
でも確かに体を濡らす雨も止んでいます。

「どうして…?」

私は目を凝らしてその青空をよく見てみました。
それは青空ではなく、空色の雨傘でした。
そのことに気付いた時、私の後ろから声がかけられました。

「風邪ひくよ、若菜…」

それはずっと聞きたかった声。
振り向くとそこには確かに今一番会いたかったあなたの顔がありました。
私に優しく傘を差し出しています。
でも…。
私の手は傘を持つあなたの手を強く払いました。
傘は風に舞い何処かへと飛んでいきます。
そして私の口から出たのは…。

「な…、何かご用ですか…」

それは、その言葉を発した私自身が驚くほど冷たい声でした。
さらに私の意に反して、口がかってに言葉を紡ぎます。

「ご用がないなら、どうぞ、お帰りになってください」

この言葉にあなたは始め驚いた様子を見せましたが、すぐにどこか納得したような顔になりました。

「そうだね…、もう何をしても今更だよね…」

それは初めて見るあなたの悲しい顔…。
その時になってやっと私は自分の言葉を取り戻すことが出来ました。

「ご、ごめんなさい…。私、なんてことを…」

「いや、謝るのは俺の方だよ…」

あなたは優しい微笑みを私の方に向けてくれます。
私の凍っていた心は溶け出して、素直な想いが溢れ出してきます。

「わ、私…、私…」

言葉と一緒に熱い涙も溢れ出てきます。

「ずっと…、ずっと、お会いしたかったのです。なのに…、あなたは…」

あなたは雨でずぶ濡れになっている私の顔から涙を見つけて、その大きな手でぬぐってくれました。
一人ぼっちではないという安堵感は、今までの淋しさを強く浮かび上がらせます。

「私、淋しかったんです…、とっても…」

その言葉にあばたは、すべての淋しさを忘れさせるように、私の体を自分の方に引き寄せました。
私はあなたのコートの中にすっぽりと収まってしまいます。
今までにないほどあなたに接近して、恥ずかしさと喜びから体は熱く火照ります。

「でも…」

あなたのぬくもりを体全体で感じて、私は言葉を続けます。

「でも、来てくれたんですよね?私に会いに…」

私を引き寄せたその腕に力が込められ、ここからでは見えませんが確かに頷いたのが分かりました。
私もあなたの体に腕を回し、より強いぬくもりを求めました…。




「俺…」

そうやってぬくもりを交わしていると、あなたが口を開きました。

「あの時からずっと悩んでいたんだ…」

あの時とは、お見合いのことでしょう。
でも、そんな素振りは見受けられませんでしたが…?

「若菜に相談を持ち掛けられて…、俺は答えを出した。
でも本当は、人生だとか若菜の意志とか、そんなところから答えを出した訳じゃないんだ」

それじゃあ…、どうして…。

「ただ、若菜を離したくない。誰にも渡したくはない、そんな気持ちから出た答えだったんだ」

あ…、でも、それって…。
私は頬が熱くなるのを感じました。

「東京に帰ってから、色々と考えたよ…。
もちろんあの場は、ああ言うしかなかった。
でもそれで誰かの未来を変えてしまっていいのか。
そして、あの言葉に責任を取れるのかどうか。
ずっと、悩んでいたよ…」

私の相談が、あなたにそんな苦しみを与えていたなんて…。
あなたが今どんな表情をしているのか…、私はおそるおそるあなたの顔を見上げました。
そこにあった表情は…、私の予想に反して晴れ晴れとした笑顔でした。
あなたは私と目を合わせて言葉を続けます。

「今日とりあえず電話をいれたら、若菜のお爺さんが出てきてね。
『京都に来い』って怒られたよ…。
まあ、そのおかげで分かったんだよ…」

「何が…ですか?」

「未来とか人生とか、そんな不確かなものに必要以上悩むのはばかばかしいってこと。
だって…」

あなたの私を見る目がいっそう優しくなります。

「だって、この腕の中に何よりも確かなものがあるのだから…」

「…はい…」

私は喜びで、その一言を発するのがやっとでした…。




「そろそろ行こうか?
いつまでもここにいたら風邪をひいてしまうよ」

あなたは私をコートの中に入れたまま歩き出しました。
私の歩幅にあわせてゆっくりと…。

「ずいぶんと濡れたみたいだけど…、大丈夫?寒くない?」

私は首を振ります。

「いいえ、とっても暖かいです…」

この世で一番のぬくもりに包まれているのですから…。

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