電話をかける勇気はない。

電話を待つ勇気もない。

だけど、答えのでない思考の輪から私は抜け出したかった。


恋・秘め



私―沢渡 ほのか―は、半年前に再会を果たした彼―皇 輝之―の家の前にいる。
彼の家に足を運ぶのはこれで二度目になる。
一度目のときは手紙を残す事しかできなかった。
でも今回は直に会わなければならない。
私は意を決して、インターホンのボタンに手を伸ばした。
たった数十センチの距離が果てしなく長いものに感じる。
そして一瞬とも永遠ともつかない時の間にあの時の事が思い出される。

―函館山で彼がキスを迫ってきたこと
―思わず平手打ちが出てしまったこと
―「大嫌い」と言ってしまったこと
―逃げ出してしまった自分

その記憶の逆流は、今伸ばしている手が平手打ちを放った右手だということを気付かせる。
手の平にはまだ、彼の頬の感触が残っているようだった。
そして、その感触に押されるように、手はそれ以上先には進まなくなった。

―このボタンを押せば彼に会えるはずなのに…

そう思いながら私は彼がドアを開けて出迎えてくれるところを想像した。
その時、私はある事実に気付き驚愕した。
彼の笑顔を思い出せないのだ。
7年間たっても変わらなかった彼の優しい笑顔。
あの時まで彼を思うたびに浮かんでいたあの笑顔が思い出せないのだ。

それほどまでに私の心の内は乱れているんだ…。
こんな気持ちのままでは会ってもどうしようもない…。

そう思ってその場を立ち去ろうとしたその時だった。

「沢渡ほのかさんですね…」

振り向くとそこには見知らぬ女の子がいた。
彼女の年は私と同じくらいだろうか、なにかかげりのある表情で言葉を続けた。

「少しお話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

その言葉に強い意志を感じて、私は頷いて肯定の意を示した。


彼女が歩を進めたのは彼の隣の家であった。
その表札に目を向けると「鳳」と書かれていた。
その私の視線に気付いたのか彼女は口を開いた。

「自己紹介がまだでしたね。私、鳳 朱美といいます」

どうもさっきからこの人の言葉には怒りというか、敵意みたいなものを感じる。
今日始めてあった人に何故…、そう思いながら私は居間に通された。
ソファに腰を下ろし、朱美さんと向き合うと、私は早速疑問を口にした。

「何故、私のことを知っているのですか」

その問いに彼女は少し辛そうな表情を見せて答えた。

「あなたのことは、輝クンからいつも聞いています」

よく考えれば当たり前の返答であった。
北海道にいる私と、東京にいる彼女との接点は彼しかありえない。
…ちょっと待って、それじゃあこの前のことも、知ってるんじゃ…。
しかし、彼女の表情からそれを窺い知ることはできない。
そんな私の心の内を知ってか知らずか、彼女は言葉を続けた。

「私からも一つ質問があります。
輝クンとあなたの間にいったい何があったんですか?」

とりあえず、この前のことは知らないらしい。
私は少し安堵した。
だが、この質問にはどう答えればよいのか…。
目の前の彼女は真剣な顔で私の答えを待っている。
私たちの間に沈黙が流れた。



「…分かりました、では質問を変えましょう」

なにか納得した表情で、彼女がこの沈黙を破った。
沈黙を破ってくれたことと、質問を変えてくれることに私は正直ほっとした。
もっとも、沈黙は何らかの答えを与えてしまったようだが…。

「あなたは、輝クンのことどう思ってるんですか?」

その新たな質問はさっきの質問よりも私を困惑させた。
私はいままでその事について―、私が彼のことをどう思っているかという、その答えを出すことを避けていたことに気付く。
確かに彼といると楽しいし、少しでも長く一緒の時を過ごしたいと思う。
でも…、でも…、恐いのだこの感情を認めてしまうことが。



またしても部屋に沈黙が流れた。
そして、この沈黙を破ったのは、また彼女であった。

「私は…、輝クンのことが好き…」

私はその言葉に彼女の顔を覗きこんだ。
私の視線を受けながら彼女は言葉を続ける。

「幼稚園の頃からずっと好きだった…。
小学校に上がる前に輝クンは引っ越していったけど、それでもずっと好きだった…。
高校に上がるときに、やっと帰ってきてくれた。
でも…」

彼女の声が次第に震えてくる。

「でも…、彼は私のことをただの幼なじみとしか見てくれなかった。
それでも、側にいてくれるだけで私は嬉しかった。
笑顔を見てるだけでも幸せだった…」

彼女の瞳が潤み始める。
「…今年の春、ほのかさん、輝クンに手紙を出したでしょ?
私、窓から見ていました」

あ…、見られてたんだ…。
その事実に私は顔を赤らめる。

「それからです、輝クンは週末になると出かけるになりました。
バイトだって、夜遅くまでするようになりました。
訳を聞いたら嬉しそうにあなたのことを話してくれました…」

彼女の声は完全に涙声になっている。

「輝クンの嬉しそうな顔を見ると私は何も言えませんでした。
好きな人が幸せならそれでいいって思いました。
でもこの前帰って来たときから、すごく苦しそうなんです。
私が聞いても『なんでもないよ』って答えるだけで、何も話してはくれません。
だから…、だから…」

彼女の瞳からはとめどなく涙があふれている。

「輝クンのことを、なんとも思ってないのなら…。
お願いです、輝クンをこれ以上苦しめないでください…」

彼女は肩で息をしながら、話し終えた。

あぁ…、彼女はこんなにも彼のことが好きなんだ…。
私は素直に自分の気持ちを表に出す彼女を半ば羨望の眼差しで見た。

…じゃあ、私はどうなの?

私は自分自身に問い掛ける。
もう避けて通ることはできない、ここで答えを出さないといけない。

…初めて会ったときは少し気になるくらいだった。
…落馬した私を助けてくれたときから、他の男の子とは違うって思い始めた。
…入院した彼と交換日記をしているとき心が弾んだ。
…別れのとき、日記を渡すのが間に合わなくて、彼にもう会えないと思ってすごく悲しかった。

だって、私は…、私は…。



「輝之君のことが好きだから…」

誰に聞かせるでもなく私の口から言葉が零れた。
口に出してみて始めてその意味が心に広がっていく。
彼の優しさが、彼の強さが、彼の笑顔が、私は好きなんだ…。
もう、彼の笑顔を想像できないことはなかった。
私の悩みは「好き」という言葉一つで消えてしまった。

「私は輝之君のことが好きです」

今度は、はっきりと口に出す。
彼女はそれを聞いて、どこかすっきりした表情を見せた。

「そうですか…」
少し辛そうではあったが、彼女は笑顔を見せてくれた。





「これからどうするつもりですか?」

玄関で私を見送りながら彼女は聞いてきた。

「向こうに戻って、手紙を書こうと思います」

もう自分の気持ちは、はっきりと分かった。
だから、彼に決めてもらおうと思っている。
私たちの時間が、終わってしまうのか、まだ続いていくのかを。

「私が言うのもなんですけど…、頑張ってくださいね」

「ありがとう、あなたも頑張ってね…」

私は東京にいる恋敵に別れを告げた。



もう私は迷うことはないだろう…。

自分の秘めた思いを知ることができたのだから…。

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