カーテンから覗く朝の風景は、まぶしい朝日に染まっている。
それは、いかなる人にとっても気持ちの良いものであったし、今日一日の喜びを約束してくれるものに感じられるだろう。
しかしこの部屋にいる人物の表情は、今日の天気ほど晴れやかなものではなかった。
しかも今日は、デートの約束の日であるにもかかわらずだ。
その相手を嫌っているわけではない。
むしろ好意を寄せている―まだ、それを表立って口にすることはなかったが。
ベッドからのろのろと起き、ひやりとした床に立つと、誰に聞かせるでもなく呟いた。

「また、眠れなかったな…」

その少女―森井夏穂―の呟きはため息と共に消えていった。

以心伝心


夏穂は待ち合わせの場所へ歩いていた。
しかしその足取りは、御世辞にも溌剌としたものではない。
拭い切れない疲労感を引きずって歩いている、そんな感じであった。
そんな状態でも、間違い無く目的地に向かっている。
生まれてきた時から慣れ親しんだ町だ、頭が働いてなくても体が覚えている。
待ち合わせの場所に後少しというところで、左腕の腕時計を見る。
10時。
約束の時間は1時、3時間もの空きを作ってしまった。
(早過ぎたか…)
そうは思ってみたものの、家の中でじっとしているのは性に合わないので出てきたのだ。
どうやって時間を潰そうか…、そう思っていると一人の少年が視界に入ってきた。
3時間後でなければ会えないはずの少年。
夏穂の足取りは自然と速くなった。
後少しで少年も自分のことに気付くであろう、そんな距離まで近づいたとき変化が起こった。
自分を中心に少年が、道が、世界そのものが傾き始めたのだ。
驚きの表情を見せ自分に駆け寄ろうとする少年。
大声で何か言っているようなのだが、音は夏穂の世界から消えていた。
少年の手が自分のほうに差し出され、体を抱きとめられた時ようやく自分が倒れていることに気づいた。
そして、気付いた次の瞬間、夏穂の意識は闇の中に消えていった。


目を空けると、見慣れた天井、見慣れた壁、そして…。
見慣れない人影。
いや、見慣れないというのは正確ではなかった。
今まで、この自分の部屋をバックにして向き合ったことがないだけで、この少年にはこの1年近くで何度も会っている。
そこまで思考をめぐらせたところで急に我に帰った。

「な、何で!?」

―何故出かけたはずの自分が部屋に戻って寝ているのか。
―何故少年が傍らにいるのか。
それらを合わせた問いをぶつけたつもりであった。
しかし、少年は少しずれた方向にその問いを受け止めたようだった。

「あ、心配しないで。パジャマに替えたのは夏穂のばあちゃんだから」

「そうじゃなくって!」

夏穂の突っ込みを無視して少年は言葉を続ける。

「いや、急に倒れるものだからびっくりしちゃったよ。
 お医者さんが言うには、過労だって。
 とりあえず今日一日はゆっくり寝てなくちゃ駄目だよ」

その言葉から夏穂は自分の今の状況を理解した。
(えっと、どれくらい眠っちゃってたんだろう)
首を回して時計を見ると5時を少し回ったところであった。
(えーっと、7時間ぐらい眠っちゃってたのか。ん、5時って…)

「いけない!店に出ないと!」

お好み焼き屋『おたふく』は祖母と二人で切り盛りしている。
それを一人でやることがどれだけ大変か、それを知ってるから夏穂は店に出ようと立ち上がろうとする。
しかし、少年は夏穂の肩を押さえて、夏穂をベッドに押し戻した。

「今言ったばかりだろ。今日はゆっくり寝てなくちゃって」

「でも!」

「今日は僕が手伝いに入るから。いいね」

少年の口調は優しいものだったが、反論を許さぬ強い意思が込められていた。

「大丈夫。手順は前に覚えたから」

その言葉に夏穂の顔は熱くなる。
春に少年と再会した時、臨時に入るバイトと勘違いしてこき使ったことを思い出したのだ。

「もう!わかったよ!」

赤くなった顔を見られるのが恥ずかしく思えて、夏穂は頭から布団をかぶる。

「それじゃ、ちゃんと寝てなくちゃだめだよ〜」

その様子を見て少年は少し安心した表情を見せ、部屋を出ていった。
会話を失った夏穂の部屋には、そのかわりに1階の喧騒が漏れ聞こえてくる。
(なんか、こんなの久しぶりだな…)
まだ店の手伝いができなかった頃は、この喧騒を子守唄代わりに聞いてたのだ。
手伝いができるようになり、自分が喧騒の中にいるのが日常になって久しく感じなかった安堵感が広がる。
その安堵感に身をゆだねて夏穂は安らかな眠りの世界に入っていった。


夏穂が再び目覚めた時、部屋には一切の光が無かった。
蛍光灯のスイッチを入れ傍らの時計に目をやると、もう夜中を示す時間であった。
もう片付けまで終わってしまったのか、1階からは何の音も聞こえない。
(喉乾いたな…)
水分補給をしようと部屋を出て階段を降りると、洗面所のほうから物音がする。
そのほうに行くと、歯を磨いている少年がいた。
少年のほうも背後に誰かいるのを気配で察したのだろう、振りかえって屈託の無い笑顔を向ける。

「あ、よく眠れた?」

「あっ…、う、うん」

会話はそこで途切れて、沈黙が二人の間に流れる。
先に破ったのは夏穂のほうであった。

「もう行っちゃったのかと思ってた」

「ああ、夏穂のばあちゃんが部屋を貸してくれたから、好意に甘えさせてもらうことにした」

この家には両親が使っていた部屋がそのまま誰にも使われずに残っている。
多分その部屋を使うのであろうとあたりをつけて、夏穂は話を切り出す。

「話があるんだけど…。後で部屋に行ってもいいかな?」

「いいけど…」

了解を得ると夏穂はその場を離れた。
当初の予定通り、台所に喉を潤しに行く。
それに、こんな喉がカラカラの状態じゃ話も十分にできない。


それから時間を少しおき、両親が使っていた部屋の前に立つ。

「入って、いいかな?」

部屋の中へ呼びかけると、

「いいよー」

少々間延びした声が中から返ってくる。
部屋の中に入ると布団の上に少年は座って待っていた。
傍らにはバッグが一つ、手には時刻表を持っている。
夏穂は少年と向かい合う位置に腰を下ろした。

「今日はごめんね、せっかく来てくれたのに…」

「ん、ああ、いいって。こんな時もあるさ。
 それよりも、一体どうしたんだい?」

倒れたことを言っているのだろう。

「うん…、最近眠れなくって…」

「眠れないって…。何で?」

理由ははっきりと判っている。
目の前にいるこの少年、それが理由のすべてであった。
春に再会した時からしばらくはそんなことは無かった。
しかし、デートを重ねるにつれ、少年の存在は夏穂の中でどんどん大きくなっていく。
そしてそれは良い事だけをもたらしたわけではなかった。
デートが終わり別れた時の、消失感。
頻繁に会えないことや、大阪−東京という距離から来る、不安感。
そんなものが、絶えず胸を苦しめるのだ。
だが、それを直接口にするのはためらわれた。
夏穂は逆に質問を返してみる。

「あなたは…、不安になったりしないの…?」

「不安にならない…、っていったら嘘になる。
 でも、信じているから」

「信じてるって…、何を?」

そこで少年は少し考えるそぶりを見せた。
考えがまとまり、少年は答える。

「今日のデートって、まぁ結果的に中止になったけど、いつものペースよりは早かっただろ?」

大阪−東京という距離は、頻繁に会うには遠すぎる距離だ。
スケジュール的にも金銭的にも、簡単に来るわけにはいかない。
何度もデートを繰り返すうちに、そのペースは作られてきた。
夏穂は『どうして?』というような顔を少年に向ける。

「電話で約束入れようとした時、夏穂、僕に会いたいって思わなかった?」

思った。
少し前に会ったのにもかかわらず、どうしようもなく会いたいと思ったのだ。
だからその電話は、ものすごく嬉しかったのだ。
夏穂はただ一つ頷いて、答えとした。

「僕もね、あるんだそんなこと。
 バイトから帰って、『あー、夏穂の声が聞きたいなー』と思った時、留守電に声が入ってたりする。
 以心伝心ってヤツだね」

「以心伝心…」

「だからね、そういう場面に出くわすと、心がつながってるんだって思えるんだ。
 そうすると不安なんかはスーっと消えて行くんだ。
 だから僕は、その心のつながりを信じてるんだ」

つまりそれは、自分の想いと相手のすべてを信じているということ。
夏穂は自分の想いには気付いていたし、それを信じていた。
だが、頻繁に会えないこと・二人の距離という現実が、少年の姿を曇らせていた。
しかし、少年の想いを知った今、その姿をはっきりと捉えることができる。
(もう大丈夫)
向かい合った二人は、どちらかともなく笑みを浮かべる。
それは、二人の気持ちが重なった瞬間。

「以心伝心、だね…」

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