「その優しさは…、私にだけなのかな…、それとも…」





優しさの行方


私は夜の広島の街を走っていた。
何気に出た一言が、私の心を苦しめる。
「何でもない」一言のはずがない。
答えを知りたくて…、でも、知りたくないて…。
そんな二律背反な思いに心は張り裂けそうになっている。
走っても振り切る事ができないこの想いは、逆に休むことなく沸き上がってくる。
どこに向かっているのか自分でも分からない。
それでも私は走り続けた…。


どれだけ走っていたのかはわからない。
ただ、四肢は悲鳴を上げ、意に反してその動きを止めてしまう。
体中が酸素を欲し、その欲求に応えるように荒い呼吸を繰り返される。
視界はブラックアウトし、自分がどこに立っているのかもわからない。
全身に酸素が行き渡るにつれ、瞳も徐々にその機能を取り戻していく。
膝に手をつき、下を向いていた私の目に入ったのは一面の砂であった。
耳には波の音も入ってきている。
どうやら私は砂浜に来てしまったらしい。
より詳しい場所を知るために顔を上げると、そこには見知った灯台があった。

「フッ…、この場所に着いちゃうなんてね…」

そんな言葉が口を衝いて出る。
キミと同じ感動を共有した灯台。
幻の転校生が幻ではなかった唯一の証拠が残る灯台…。
ここに来るのはずいぶん久しぶりだった。
だって、過去の思い出にしがみつかなくても、キミに会えるようになったのだから…。


私は誘われるようにその灯台に足を踏み入れる。
中の空気は昔のままに私を優しく包み込んだ。
上へと続く螺旋階段に足をかけると、不意にそこに五年前の影が見えた。
私に手を差し伸べるキミの影…。
私がキミから受けた始めの優しさ…。

「そうだね…。あの時からずっとキミは優しかった…」

その優しさが心の中に入りこみ、積み重なっていくたびに、私は変わってしまった。
心が満たされていくのと同時に、もっと多くの優しさを求めていくようになってしまった。
その優しさを一人占めしたいとさえ思うようになった。
そのことに気付かず、口から出たあの問い…。
キミはどんな風に感じただろうか…。


…嫌われちゃったかもしれないね。
だってキミは誰よりも自由が似合う人だもの…。
私のワガママでそれを縛っていいはずが無い。
だから…。


考え事をしている間にも止まらなかった足は、私を灯台のてっぺんまで運んでくれた。
そこから広がる夜空には、満天の星々が輝いている。
でも、その輝きさえも今の私の心を晴らしてはくれない。
出口から一歩踏み出し、私は手すりに手をかけた。
わずかな凹凸の感触が手の平に伝わってくる。
あの時、キミが残してくれた最後の言葉。
それの一部はまだかろうじて読み取れる事ができた。
『サヨナラ』
時を経て残っていたこの言葉は、私に何を伝えようというのか…。
さして広くないこの場所で、私は膝を抱えて座り込み、その答えを探し出した…。
いや…、答えならもう出ている。
それを実行する踏ん切りがつかないだけなのだ。
腰を下ろしたままの体勢から顔を上げるとそこには、五年前の私たちがいた。
流星群の夜に、奇跡のような出会いを果たした二人。
すべてはここから始まったのだ。




…なら…。
流星群の夜に…、もう一度別の奇跡を起こして…。
それで終わりにしよう…。
キミを縛るのを最後にしよう…。
私はそう決心した。
視界にまだ留まっている、あの時の楽しそうな二人…。
その光景は涙によって次第に揺らいで見えてきた…。
























そして…。
五年の月日が流れた…。

「その優しさは…、私にだけなのかな…、それとも…」

私は隣に立つ青年に声をかけた。
少年という殻を脱しながらも、どこかあどけない雰囲気を残しているキミに。

「二度目だね?その質問」

そう、これが二度目の質問。
あの時の決心とは裏腹に、キミはずっと私のそばにいてくれた…、そして、これからも…。
今までもこの質問を試みようとした事はあった。
しかし、その度毎に逃げてしまう自分を予想していた。
だから、今日この日、この時を選んで問い掛けてみたのだ。
決して逃げる事の叶わぬこの場所で…。

「優だけに…、って言うのは難しいかな…」

小声でしかしよく通るその声で伝えられたのは、少し予想外な答えであった。
でも、少し不安に震えた私の表情に気付き、キミは言葉を続ける。

「僕は、優を幸せにしたいと思っている。
それには、優と僕と、そして僕たちを取り巻く人たちみんなが幸せでないと、それは感じられないと思うんだ。
だから、たくさんの人たちに優しさを向けたいと思っている…」

そこまで聞いたところで、目の前の扉が開いた。
眩しい日の光に思わず目を細める。
目が慣れてくると、私たちを祝福してくれているたくさんの笑顔があった。
その光景に私の心は満たされていく。

ああ…、私を孤独から連れ出したキミは、こんなに大切なものを与えてくれた。
そんな感慨にふけっていると、不意に体が宙に浮いた感じがした。
純白のドレスがそれを追うようにはためく。
キミのいたずらっぽい笑顔が近くにあるのを見て、抱きかかえられていることに初めて気付く。
私の視線とキミの視線がぶつかると、その表情は真面目なものになった。
その口がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「でも、一番優しくしたいのは、優、君だけだよ…」

その瞬間、キミへの愛しさは一杯になった。
この気持ちを態度で表そうと、キミの首に腕を回そうとした。
でも、右手に邪魔なものを握っている事に気付いた。

だから私は…。

右手に握っていたブーケを、大空高く放り投げた…。